20年近く使っていたクレジットカードをやめて、新しいカードを作ることにしました。
その為に、ウェブサイトに個人情報を入力して申し込みます。面倒くさいことは当然ですが、考えさせられることが幾つかありました。
入力項目は絶対必要な情報と、そうでない情報にわかれています。例えば、パスポート番号はソーシャルセキュリティー番号と共に私である証明になる物でしょう。でも、必要項目ではありません。必要ないんならそんな項目、入れておかないでね。
また、勤め先情報は必須です。仕事してない人はどうしたらいいのでしょう。勤務先も住所と電話番号が必須です。私はまだ勤務してますが、仕事は家からです。会社の携帯も、使わないので返してしまいました。だから電話番号無し。ちょっと悩みますよね。定年退職したら、新しいカード作れないのかな?
そこでふと、思ったんです。私が私である証明になるものって何かしらって。公にはいろいろありますが、明日、記憶喪失になってしまったら、私の証明は誰がどうやってしてくれるのでしょうか。身分証明書をいつも持っていない限り、私は私として、この社会で生きていけない。誰かが私の代わりとして生きてもぜんぜんわからない。悪い事したら指紋が証明してくれるのかな。昔は自分の名前さえ言えばそれで済んだのにね。原始時代はどう認識していたのでしょう。
このご時勢、逆に、どこまで私の個人情報が他人に検索されうるのか、気になるところ。それならいっそ指紋で全部わかっちゃうシステムにすれば便利じゃないの?わざわざカードの申し込みにデータ入力する必要ないし。。。怖っ!
用途により違う答えがありそうです。政府、銀行、会社、学校、医療、そしてソーシャルメディア、などなど。
こういうのって、詐欺師が盗める私情報ですよね。でも、詐欺師でも盗めない私だけの情報、本当の私。どう証明したらいいのでしょう。森村誠一の「人間の証明」や松本清張の「砂の器」も突き詰めていけば本当の自分の発見みたなのが根本に流れているように思います。
社会の中で定義されている私が私なのか。つまり、自分が決めるんじゃなくて、社会が私を定義して証明するという仕組み。
簡単に言ってしまえば「私らしさ」みたいなものなんでしょうか。なんだ、そんな事だったの?って言われてしまうかな。でも、これ、すごく難しいです。記憶喪失になったら本当にどうなるのかな。小川洋子の「博士の愛した数式」も興味深い小説です。そして、結局、デカルトの例の言葉に繋がっちゃうのでしょうか。
「我思う、ゆえに我あり」
あっ、やばい。難しくなりすぎで頭が痛い~。この辺で止めときます。とりとめもなく、失礼しました。