いつもそこにある。
でも見えない。
一生懸命見ようとしても、
見えないときがある。
突然、予告もなく見えるときもある。
さしのべた手の先にあるものは何だろう。
花にむかい、花を受け入れた時、
やさしくなれたよ。
暖かい日差しを手のひらに感じた。
幸せが見えた。
幸せに包まれていた。
レモンをレモンと言えるのか。
レモンを酸っぱいと言えるのか。
360度すべてのアングルから見えるものを総合することは、いったい可能なのか。
いったいどこまで見えたら私の意見が言えるようになるのか。
すべてを見極めることなんて可能なのか。
何かにフォーカスしなければ、たった一つのことでさえ表現し得ない。
すべての事象には多面性がある事を自覚することぐらいしか、私にはできない。
だから、私の発言はいつも偏ったものであることを伝えておかなければいけない。
そうでないと、多くの人を傷つける。
真実と現実は確実に違う。
いったい真実は存在するのか。
現実は、個人の思考の中にのみ存在する。だから、無数の現実が存在しえる。
そして真実はすべての生命体を包括して鼓動するうねり以外にいったい何があるのかと、偏った私の思考が問いかける。
喜怒哀楽がどれほどはかなく、一瞬の夢であることか、多くの人が説いてきた。
永遠は永遠に続かないという事実のみが永遠だ。
確実なことは何もなく、それを受け入れるしかないことが確実だ。
いつまでも大切なものを保ち続けたいということは、死を意味する。
生きていきたいのなら、変化を受け入れ、変化に乗っていかなければ押し倒されるだけだ。
だから・・・いつまでたっても、私にはゾウの姿は見えない。
急ぐ必要はない。でも、季節も人も、そして私も変わっていくのを感じる。やはり春という季節がそう感じさせるのかしら。
永遠に変わらないものが美しいと思い、あこがれていた。誓い合った変わらぬ愛、いつまでも若々しい美貌、初心を貫く変わらぬ決意。こんな考えは、生まれながら持っているものなのか、わかりやすいからか、いつの間にか価値として持っていた。
そんな事言って無理に変わらぬものを持ち続けようとすると、苦しくなって行き詰る。日本文学は昔から諸行無常を説いているのにねー。中学校や高校の国語の時間に出会っているはずなのに、私の価値観を矯正してくれなかったのは、なぜだろう。授業をろくに聞いていなかったからかな。でも本当の所は、分かっていても潜在意識下で拒絶していたんだろう。だって、とても生き難くなると思えたから。本当はまったく逆なんだけどね。
動いているものを理解し、つかむのは難しいと思った。
そんな考えの根本には、自分は変わらないという前提がある。でも、その前提はまったくの大はずれで、自分こそが常に変化していることを自覚する事からスタートしないと、病気になってしまう。人生はコーラスのようなもの、誰かと踊るダンスのようなもの、サーフィンのようなもの。回りにあわせて自分も歌い、相手にあわせて自分も動く。波を選んでタイミングよく乗る。失敗しても、仁王立ちになって波をまともに受けるよりずっと被害は少ない。
こんなこと、わかっていても時々しがみついていたくなる。居心地のいい場所にずっと居たくなる。散りゆく桜の花びらを見ていたら、やっぱり感傷的になってしまった。はかない命、美しさだからこそ、いとおしい。友人のご家族が他界されたという知らせと花びらが、私の中で重なった。
永遠に変わらないもの・・・それは、過去の事実。すべてが変化する中で、過去だけが変わらない事実として存在し続ける。でも、だからこそ、過去にしがみついていては、波に乗らないサーファーになってしまう。勇気を振り絞ってすくっとボードに立ち上がる。そしてバランスで波をのりきる。後ろを振り返ってもいいけど、そんな暇ないよね。
さーて、次の波はいつ来るかしら。どんな波に乗ろうかしらん。