与えられることから独立し、選択する道を選んだはずだった。
ところが最近、再び与えられる生活に浸っている自分を発見する。
与えられることを全否定するつもりはないが、自分のしたいことを見失う可能性を恐れる。
強い意志を日ごとに確認していかないと、情報の洪水の中で溺れてしまう。
新聞の購読は、10年ほどしていない。
テレビを点けっぱなしにしておくこともなくなった。テレビを点けることすら、ほとんどなくなった。
ウェブをブラウズする事で、自分の欲しい情報だけを選んでいた。
そこへTwitter やFacebook の出現に、状況は一変する。
多くの友人の発する情報が、自動振込みされるようになってきた。
新しいもの好きの私は、結構楽しんでいた。孤独を癒すには、もってこいのツールでもある。
でも、不器用な私は、それぞれの発信を丁寧に読み、その情報量に圧倒され始めた。
巨大な壺の中で、次々に送り込まれる情報という名前の餌の中で、埋没しかけている図が脳裏に閃いた。
そして、壺から救い出した。
壺の上から見下ろすと、私の壺にはスクリーニングする網がかけられていなかったことに気づく。
いわゆる、情報垂れ流し状態で、壺の中は掃き溜めだった。
体に悪いはずだ。
Twitter はもうしない。Facebook は活用の方法をリセットする。
何でも自分の許容量を確認し、整理整頓が一番ですね。
突然思いついて、エクアドルから持ち帰った壺を出してみた。1000年前ぐらい前のものだと言われたが、ウソである可能性の方が高い。



きっと何もしてあげられない。
この夕日を見るといつも、ジワッときて、ありがとうって、感謝する。美しいだけじゃない、雄大な自然の暖かさがあるからなのね。あ、これは歳をとったというより、経験値ね。
現実は、個人の思考の中にのみ存在する。だから、無数の現実が存在しえる。
そんな考えの根本には、自分は変わらないという前提がある。でも、その前提はまったくの大はずれで、自分こそが常に変化していることを自覚する事からスタートしないと、病気になってしまう。人生はコーラスのようなもの、誰かと踊るダンスのようなもの、サーフィンのようなもの。回りにあわせて自分も歌い、相手にあわせて自分も動く。波を選んでタイミングよく乗る。失敗しても、仁王立ちになって波をまともに受けるよりずっと被害は少ない。