お勧め本。「自分の壁」 養老孟司
彼の視点であらゆる事に触れ、彼のユニークな考え方が満載で非常に面白いです。本の全体像はとりあえず据え置きにして(まだ第6章を読んでる最中なので)、面白いくだりがあったので、書きとめておきます。
第5章に「それはまずいでしょう」という言葉が言及されています。
日本では良く使われる言葉で。過去に言われた時の光景も思い起こせます。
以下、彼の言葉を引用します。
どういう理由で、どの辺がとう、まずいか。その理屈はいちいち言語化されない。誰も説明しない。でも、「まずい」のは「当たり前」なのです。それは無意識で共有されている。
あー、日本だなーと頷いてしまいます。6章には「まあまあ」という言葉も出てきます。
「まあまあ、良いじゃないですか、仲間なんだから。」みたいに使われ、怒っている人をなだめる時に使われますよね。
同じ文化を共有しているという基盤の元、あやふやに、まあまあの線で納得しましょうよ。ね!みたいに、暗黙の了解を求めているんですね。
この暗黙の了解は、日本の言語そのものです。主語もなくていい、目的語なんかもなくていい、動詞もなくていい時もあったり。それでもわかっちゃう。主語があるとかえってわずらわしい文章になる。それに比べると、英語ではありえないですよね。勿論、FBの書き込みなんて別ですよ。日本の随筆などは「つれづれなるままに・・・」書かれるから、結論だってどうでもいいみたいなところあるでしょ?必ず起承転結がある英文とは正反対です。
そんな事いったら、日本企業の会議って(最近起業した会社は違うかも)ものすごく長くて、結論に達することが目的なのかどうかわからない時がありませんか。実際に日本の会社で働いたことがないので本当の事はわかりません。でも、出張先の日本の会社での会議の時に、いつもじゃないけど、よく感じたことでした。
裏には共通の社会、理解が存在しているからそんなに説明しなくてもいいんですね、きっと。
じゃあ、例えば会議は何の為に開くの?とりわけ「根回し」した後の会議。時間の無駄~と、思えますよね。
多分、想像ですが、共通の足場を確認し合い、信頼関係を再確認するのが目的なんじゃないかな。だから、email なんかで片付けられない。
その点、この国の文化は違います。会社でも家でも、ずっしり感じます。
ばんちゃんと話をしていても、
「あっちの方が良くない?」と、私。
「何が?どう良いの?もっとはっきり説明して。」と、ばんちゃん。
きちんと理由を列挙して、何がどんな物に比べて優れているのか説明しなくちゃいけないのって、ときどき疲れます。時々うっかり感情的にポロリ言ってしまうと突っ込まれます。
いわんや会社においておや、です。契約の更新、めんどくさーい。弁護士との交渉、考えただけで疲れる~。
これからの日本。外国人が増えている中、「それはまずいでしょ」「まあまあ」だけでは片付けられない機会が増えていくんでしょうね。健闘を祈ります。